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3月31日

 東京で打合せの後、神戸へ。
 神戸新聞とご面会。
 神戸での試写会の共催と、今後の兵庫県上映につきご提案。
 しっかりと受け止めていただけたようでした。
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3月30日

 終日東京。
 全日本菓子協会O専務様、全国保護司連盟事務局長N氏とご面会。
 今後の対応につきご相談の後、中心メンバーで集まり4月下旬の東京と神戸での緊急チャリティ試写会を決める。
 いつまでも立ち止まっては居られない。立ち上がろう・・・!

3月28日

 今日から始まる又長い旅でした。
 製作委員会の一員で、宮城県民の会事務局長としてこの映画の企画からまさに二人三脚で歩んできたY氏と合流し秋田へ。
 震災で日延べになっていた秋田県の上映運動の立ち上がりの会議への参加と、弘前への訪問が目的でした。
 一山越えてたどり着いた秋田市は平和そのもの。
 ガソリンを求めてスタンドを取り巻く車の行列はなく、まさに当たり前の平和を実感。
 無事を喜んでくれた秋田映画センターK氏に送られ弘前へ・・・。

 この作品の企画段階から心のこもった支援をよせて下さった地元の老舗のお菓子屋ラグノオささきのS社長とご面会。
 弘前で緊急に被災地支援の上映会を・・・と熱く語るS社長のお心に、思わず心の中で感謝の手を合わせたのでした。

3月26日

 終日、事務所にてたまった仕事をこなす。

3月25日

 製作委員会の仲間、シネマディストのK氏と終日今後の対応について相談。
 夕方、又バスにて帰仙。
 体が重い・・・。

3月24日

 一日東京で過ごす。
 企画段階から温かいご支援の手を差し伸べてくださった全国和菓子協会のY専務様とお会いする。
 いたわるような優しいまなざしに胸を熱くさせられた。

3月23日

 この日から、又出張。
 バスに揺られること5時間半、東京に着いた重い体を静岡に向けました。

3月22日

 私の妻は、仙台市若林区の農家の末娘でございました。
 3月11日、私があの惨禍に大きなショックを受けたもう一つの要因は、妻の実家の一帯が津波に飲み込まれていった映像に触れたことでもありました。
 実家には、86歳の母と兄夫婦が生活をしていました。
 あの津波では到底・・・。
 暗澹たる思いで一夜を明かしましたが、翌日、災害伝言ダイヤルで皆の無事を確認でき、ホッと胸をなでおろしたものでした。

 この現実も目に焼き付けておかなければと、現場へ。
 妻の実家のある井戸浜地区へ向う風景は、その姿を一変させて居りました。
 本来なら、田植えを前にした平和な田園風景が広がっている筈の大地は、一面の土砂に覆われ、そこここに流された車の残骸が・・・。
 訪れた実家は、まさに跡形もなくなって居ました。
 愚直に土に向かい合い、米を作り続けてきた心やさしき家族に突きつけられたあまりに過酷な仕打ちに、しばし言葉もなく立ち尽くしたのでした。

3月21日

 一日も早く行かなければならないと思っていた石巻でした。
 今にも雨がこぼれそうな厚い雲に覆われた石巻の街の姿は、まさに息をのむ程のすさまじい情景に変って居ました。

 悪魔の所業の如き津波の爪あとは、全てを破壊しつくし、絶望が街を覆って居たのでした。
 
 林隆三さん演じる旅回りの一座が一幕の芝居を演じた岡田劇場は、その姿を無くし、クランクインの記念すべき日をまるで春の日のような好天でむかえてくれた北上川河口のヨシ原は全てなぎ払われ、市民の平和な笑顔がラストシーンにあふれていた日和山から見る市街地はまさに惨憺たる有様となって居ました。
 それでも伝えなければ・・・。
 記録をカメラにおさめ、重い心を胸に抱えながら仙台へと向ったのでした。

3月20日

震災以降はじめて全社員6名が無事な姿を一同に会したのは盛岡営業所でのことでした。
久し振りに会う顔にお互いの無事を確認し、始まった会議の議題は、この大惨禍を前に私たちのたどるべき道についてでした。

 3年にわたって製作の準備を進め、作品は無事本年2月に完成、4月23日から宮城県での全国先行上映を控え、岩手・福島でも上映県組織の準備に追われていたところの惨禍でした。
 作品の完成に向け全ての資金もここに振り向けていたこともあって、まさに会社存亡の危機と向かい合いながらの会議でした。

 この日の会議に向けて私は、一つの決意を胸に抱いて居ました。
 作品は無事完成をむかえていたのです。
 東北ではとうてい上映を実現できなくなってしまったのであれば、社員一同もう一度力を合わせて東北以外に散り、とにかく一人でも多くの観客に伝えることに努力を傾けてみようと・・・。

 こんな私の意見に、心やさしき社員は賛同の意を表してくれたのでした。
 私は全国に、高澤は東京に単身赴任し、首都圏対応・・・、中山は高澤の穴を埋めるべく山形へ、武田は青森へ・・・。
 シネマとうほくの新たな旅は、この日から始まったのかも知れません。

3月18日

 仙台を出たのが3月10日、震災をはさんで数えるなら8日ぶりの東北仙台でした。
 東北新幹線がダウンしていましたので、山形空港経由で仙台へ着いたのはお昼過ぎのことでした。

 街の姿は、8日前の仙台と一変していました。
 建物の倒壊はほとんど見られず、一見したところかつての街の姿と変らない風景でしたが、街を不思議な緊張感が覆い、街を行く市民の姿にもどことなく不安感が感じられる仙台となって居たのでした。
 久し振りに事務所に戻り、山積みになった仕事の処理もそこそこに、この日は家族の待つ家路についたのでした。

3月17日

 中国地方配給社との打合せを終え、名古屋中日新聞とお会いして大阪へ。
 夜は、関西配給担当のO氏と、兵庫県映画センターのU氏が一夜の励ましの会を開いて下さったのでした。
 阪神大震災をくぐってこられたU氏のやさしい言葉と温かいお人柄に心のしこりがとけてゆく思いでありました。

3月16日

 久し振りに振り仰ぐ青空を見た思いでした。
 一昨日は静岡、そして昨日の福岡からのやさしいお声が、空だけではなく、私の胸にも一筋の光を差し込ませてくれた様でした。
 昨日の会議の後、お会いした長崎テレビK常務の前向きなお話に引き続き、今日は佐賀テレビ事業ご担当者とのご面会。
 その後、お会いした佐賀県菓子工業組合理事長O様のお心のこもったまなざしに思わず胸をあつくし、そんな暖い心を胸に岡山へ向ったのでした。
 山陽新聞社事業本部長O氏とご面会、上映のご提案の後、更に広島へ。2013年に予定されている<菓子大博覧会>との提携を語りながら、菓子工業組合の役員の方々とご面会、長い1日を終えたのでした。

3月15日

 西への出張の2日目は九州福岡。
 「エクレール・お菓子放浪記」福岡県上映推進委員会発足に向けた発起人会が予定されて居り、この会議に向けて羽田から九州へ向ったのでした。

 福岡県では、地元紙、西日本新聞が事務局を引き受け、この作品の上映を“心つなぎの県民運動”とするべく準備が進められていたのですが、この日の発起人会は大惨禍をのりこえ、東北支援の心を語る会となったのでした。

 ご参加者から交々に、今こそこの作品を通して東北支援の心を伝えよう、とのご発言が相次ぎ、そして、商工会議所からご参加の方からこんなご発言があったのでした。

 “西日本春の最大のイベント「博多どんたく」は、そもそもが空襲で焼け野原となった博多の街の再興を願う祭だった。
 今年のどんたくは東北被災地の再興を願う祭りにしたい、との願いが語られている。
 急なことだが、今年のどんたくの行事の一環として、この映画のチャリティ上映会を開催し、広く県民に支え合いの心を語りながら、被災地支援の力としたい“

 こんなご発言にご参加者一同大賛同となり、5月3日、博多どんたくの祭の一環としての緊急上映会が決定したのでした。

 暗澹たる思いで立ち止まっていた私の背をやさしく前に押してくださった福岡の心やさしき人達との出会いでもありました。

テーマ : 映画
ジャンル : 映画

3月14日

 何故こんなことに・・・。
 やっと家族と社員の無事を確認できたことだけが幸いでした。
 3年にわたって積み上げてきた夢が、一瞬にしてついえ去ってしまった様な思いに、呆然と立ちすくんでいました。

 震災のあと、そのまま東京に止まることとなり、週が明けた今日、西に向う新幹線に我が身を委ねたのは、今週から予定していた西日本への出張に、迷いを振り切ってとにかく出てみようと決意してのことでございました。
 その第1日目は静岡。
 原作者の西村先生とそのお仲間と、に全県上映実現への話し合いが予定されていたのでした。

 西村滋先生・・・とても、とても、お優しい方なのです。
 これまで歩んでこられた足跡には、数々の困難も苦難もあったというのに、それを全く感じさせない人を包み込むような温かさ・・・そんなお人柄の先生なのです。

 西村先生とお会いして、西村先生のやさしさにあふれた視線に包まれた時、堪えきれず落涙してしまったのは、これまで一人で堪えていた背の重さを西村先生と心やさしきそのお仲間の方々がときほぐしてくれたからだったのかも知れません。

 上映成功を誓う皆様のやさしい声に送られ、心にポッとともった小さな灯を大切に胸に抱いて、東京での打ち合わせに向かったのでした。

テーマ : 映画
ジャンル : 映画

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